直江兼続の生涯―その2
このような形で直江家を継いだ兼続ですが、このとき以後狩野秀治とともに上杉家の執政となります。狩野秀治の死後は直江兼続1人の執政体制となり、文字通り上杉家全体を支えるようになります。
豊臣政権時代には上杉家の外交責任者としてたびたび京・大坂に上り、活躍するようになりました。豊臣秀吉にも大変気に入られ、主君景勝とともに官位や豊臣姓を授けられたりもしています。この頃に豊臣秀吉の家臣であった石田三成と交友関係を結ぶようになり、この関係が後々直江兼続に、そして上杉家にもさまざまな影響をもたらすことになります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵が起こると、文禄元年(1592年)からの文禄の役には主君上杉景勝とともに朝鮮に渡って武功を立てました。もっとも上杉家は大将として全軍をまとめてよく戦ったとは言えるものの、実際の戦闘にはほとんど参加していないようです。現在市立米沢図書館にある「米沢善本」の中に含まれているかなりの冊数の朝鮮古活字本は、この文禄の役のときに直江兼続が持ち帰ってきたものと言われています。
その後上杉家は慶長3年(1598年)に豊臣秀吉によって会津120万石に移封を命じられました。この国替えにはかなりの困難が伴いましたが、このときに国替えがスムーズにいくように尽力したのが直江兼続の盟友石田三成でした。三成がいなければ国替えはできなかったと言われるほど石田三成の働きは大きいものでした。この国替えが終わってまもなく、豊臣秀吉が死に、上杉家と直江兼続の運命はまたもや大きく変わることになります。