直江兼続の生涯―その4
なんとか命脈を保った上杉家でしたが、会津120万石から米沢30万石への減封はかなり困難の伴うものでした。
当時の上杉家は元々の家臣団に加え、戦いに備え30000人とも言われる浪人を雇用していました。当然減封によってそれらの家臣団にも今まで通りの石高を支給するということはできないわけです。しかも直江兼続は召し放ち(今で言うところのリストラ)を行なわなかったため、これが後々上杉家の財政を圧迫させることとなりました。
その後直江兼続は慶長13年1月4日(1608年2月19日)に、名を兼続から重光に改めています。現在でも直江重光としてではなく、直江兼続として呼ばれているのは、大正13年(1924年)に宮内省より従四位を追贈されたときに、直江兼続として追贈されたからであり、これが元で現在まで直江兼続と呼ばれています。
直江兼続はその後も上杉家の執政として米沢藩の藩政を取り仕切り、大坂の陣にも参戦して武功を立てるなど上杉家の中心として活躍を続けます。しかし元和5年12月19日(1620年1月23日)、看病もむなしく60歳にして江戸鱗屋敷で病死しました。
死後徳川秀忠から銀70枚、主君上杉景勝から銀50枚が送られています。なお直江家は息子のほうが先に亡くなっており、一時養子にしていた本多政重とも養子関係を解消していたため、家名断絶ということになりましたが、直江家の知行を返上することによって上杉家の財政状態を改善させようとした兼続が意図的に行なったこととも言われています。