直江兼続の周辺人物―樋口兼豊
直江兼続の父親である樋口兼豊は朝日将軍と言われた源義仲(木曽義仲)の重臣樋口兼光の末裔であるとも言われています。妻は信州泉氏の娘(一説には直江景綱の妹とも言われている)。
樋口兼豊は直江兼続が生まれた越後国魚沼郡上田庄坂戸城の城主長尾政景に仕えていました。よく薪炭用人であったと言われますが、たしかなことは分かっていません。
樋口兼豊は永禄7年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で主君長尾政景が宇佐美定満と共に溺死すると、それからは上杉謙信に仕えるようになります。
上杉謙信の死後に起こった御館の乱では上杉景勝の側につき、勝利を得ることになります。御館の乱後にはその功によって直峰城を拝領し、直峰城主となります。
上杉家の会津移封にも付き従い、子の直江兼続が出陣している時には会津時代の兼続の居城であった米沢城の留守役を勤めるようになります。樋口兼豊は関ヶ原の戦いの2年後、慶長7年(1602年)に亡くなり、樋口家は兼豊の三男である秀兼が継ぎました。
樋口兼豊の子には直江兼続とこの後を継いだ秀兼のほかに次男の大国実頼もおり、この大国家の子孫には王子製紙前会長であった大国昌彦氏がおられます。ちなみに大国実頼には実子がなく、一時は断絶となりますが弟の樋口兼景の子である光頼を養子に迎えることによって家名を存続させています。なお大国実頼の娘は兄直江兼続の養女となって、一時兼続の養子となっていた本多政重と結婚しています。