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最新記事【2008年05月15日】

慶長3年(1598年)に上杉家が会津へ移封になったときから関ヶ原の戦いの後米沢30万石に移封となるときまでの比較的短い期間に直江兼続が仕えていたのがこの会津若松城です。


会津若松城は名前の多い城としても知られています。例えば会津若松城以外にも黒川城や会津城などと呼ばれていた時期もありますし、地元では一般的に鶴ヶ城と呼ばれています。また国の史跡としての指定名称は、若松城跡となっています。


そもそもこの会津若松城は至徳元年(1384年)に蘆名直盛が建設したのが始まりとされ、以後代々蘆名氏の城としてその歴史を刻んでいますが、この頃は黒川城と呼ばれていたようです。天正17年(1589年)には伊達政宗が蘆名氏を攻め滅ぼし、黒川城を手に入れますが、ここは豊臣秀吉に召し上げられます。


代わって入ったのが蒲生氏郷で、氏郷は大規模な改築を行ない、名を鶴ヶ城と改めています。やがて氏郷が亡くなるとそこに上杉家が入ってきますが関ヶ原の戦いの後は再び蒲生家の所領となります。それから加藤家、保科家と主を変え、保科家(後に松平と改姓)が幕末に至るまで城主となっています。城自体は幕末の戊辰戦争のときの損傷がひどく、現在見られる天守閣は昭和に立て直されたものとなっています。


会津若松城への交通手段はJR会津若松駅より路線バス鶴ヶ城・飯盛山に乗車し「鶴ヶ城北口」下車。またはまちなか周遊バス「ハイカラさん」または「あかべぇ」に乗車し「鶴ヶ城北口」または「鶴ヶ城三の丸口」下車徒歩5分。 高速バスだと(仙台・福島・郡山・いわき・新潟・野沢の各線)の起終点「鶴ヶ城・合同庁舎前」で下車徒歩約10分などとなっています。

米沢城は現在の山形県米沢市丸の内にあった平城で、伊達政宗生誕の地としても知られています。直江兼続が長い時間をすごしたのがこの米沢城です。慶長2年(1597年)に上杉家は豊臣秀吉によって越後から会津へ国替えを命じられました。このときに米沢30万石を拝領したのが直江兼続でした。もっとも直江家単体で30万石ではなく、与力も含めて30万石であったという説が有力ですが、このときに直江兼続が入ったのが米沢城でした。


後に上杉家が徳川家康に降伏し、会津から移封されたのもこの米沢であり、直江兼続は上杉景勝に命じられて慶長13年(1608年)から米沢城の大改修を行ないました。この大改修は慶長18年(1613年)に終わり、この米沢城は幕末に至るまで上杉氏の居城として用いられ続けました。
米沢城の歴史を見てみると、そもそもは鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)に大江広元の次男、長井時広によって築城されたのが始まりとされ、以来約150年にわたって長井氏の支配が続きました。その後伊達家、蒲生家と主が変わっていきますが前述の通り慶長2年(1597年)から上杉家のものとなりました。


米沢城は明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となって、現在は本丸跡が上杉神社となっており、二の丸跡は米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)となっています。米沢城への交通手段としてはJR奥羽本線・山形新幹線米沢駅から山形交通バス白布温泉行きで10分上杉神社前下車となっています。

米沢藩主上杉氏の、そして直江兼続の菩提寺がこの米沢春日山林泉寺という曹洞宗のお寺です。この春日山林泉寺はもともと上杉家の居城であった春日山城の山麓にあったもので、関ヶ原の戦いの後に上杉家が米沢に移封されたため、元和2年(1616年)に上杉景勝の生母である仙桃院が、林泉寺14世万安大悦を招聘して同号の寺を建立したとされています。そのためもともとあった春日山城山麓の春日山林泉寺も現在に至るまで新潟県上越市に残っており、同名のお寺が2つあるという状態になっています。


この記事の冒頭でこの米沢春日山林泉寺について直江兼続の菩提寺と書きましたが、もともと直江兼続の菩提寺は徳昌寺というお寺でした。ところが寛永14年(1637年)に徳昌寺と林泉寺が僧録の地位をめぐって争うという事件が起こり、それがもとで徳昌寺は廃寺となってしまいます。そこで米沢藩では徳昌寺にあった直江兼続、お船の方夫婦の墓を林泉寺が管理することと決め、林泉寺は兼続夫妻の墓を林泉寺内に改葬しました。


その後この春日山林泉寺は享保17年(1732年)に火災のため伽藍の大半が焼失してしまいますが、建て直され現在に至っています。交通手段としてはバス利用の場合米沢市民バス(循環左回り・循環右回りどちらでも可)バス停 「山大正門」もしくは「二中前」下車徒歩約2分、または米沢駅からタクシー利用で約12分となっています。


直江兼続の墓所以外にも「米沢3庭園」の1つに数えられている庭園があるなど見所の多い場所だと言えます。

若き日の直江兼続が仕えた場所、それがこの春日山城でした。直江兼続は樋口与六と呼ばれた若い頃から上杉家が会津120万石へ移封となるまでこの春日山城に出仕していました。


この春日山城の歴史は意外にも新しく、15世紀半ばに守護代の長尾氏によって築かれたのが始まりとされ、それを上杉謙信の父長尾為景が大改修しました。もっとも長尾氏が築く前にももととなったものがあり、それは南北朝時代までさかのぼるものとされています。春日山城は長尾為景から息子の長尾晴景(上杉謙信の兄)、上杉謙信、上杉景勝と引き継がれ、慶長3年(1598年)に上杉家が会津120万石へ移封となると越前国北ノ庄18万石から堀秀治が移ってきました。慶長11年(1606年)には堀秀治が急死したため息子の堀忠俊が城主となりますが、春日山城は平時の政治を取り仕切るには不便として慶長12年(1607年)の福島城完成に伴い堀家はそちらへ移り、春日山城は廃城となりました。


春日山城は鉢ヶ峰城とも呼ばれますが、春日山山上に築かれた山城であり、難攻不落の名城として知られています。現在は新潟県上越市に城跡のみが残っており、当時をしのばせる建物としては林泉寺が残っているだけとなっています。春日山城までの交通手段としてはJR東日本信越本線春日山駅下車、徒歩30分。もしくはJR東日本信越本線北陸本線直江津駅より頚城バス14分(林泉寺入口)徒歩20分。車では北陸自動車道上越ICより、15分となっています。

直江兼続が徳川家の人物で懇意にしていたのが、この本多正信です。本多正信は関ヶ原の戦いの後、上杉家が徳川家康に降伏するときに仲介役を果たした人物としても知られています。また直江兼続が本多正信の次男本多政重を婿養子としていた時期もありますし、慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど直江兼続にとって、また上杉家にとって本多正信は大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。


本多正信は天文7年(1538年)に三河で生まれました。当初は鷹匠として徳川家康に仕えていましたが、永禄6年(1563年)に起こった一向一揆の際に一揆側に与して家康の下を出奔し、大和の松永久秀に仕えるようになりました。しかしやがて松永家も去って諸国を流浪するようになりますが、この頃のことはよく分かっていません。その後大久保忠世のとりなしもあって徳川家に帰参することができました。


徳川家に復帰後は家康の参謀として大いに活躍することとなります。とりわけ徳川幕府成立後には駿府の徳川家康の下に嫡男の正純を置き、自分は江戸の徳川秀忠の下で政治手腕を発揮するといった具合に初期の幕政を完全に牛耳っていました。しかしそのような状態にはあっても所領は少なく、相模玉縄に2万2000石(1万石との説も)のみであったと言われています。後に嫡男の正純が大身を得たとたん失脚したことを考えれば正信の優れた見識を示しているとも考えられます。


本多正信は徳川家康が亡くなってほどなく、元和2年6月7日(1616年7月20日)に79歳で亡くなり、後は嫡男の正純が継いでいます。

直江兼続とお船夫婦が主君上杉景勝に代わって育て上げたのがこの上杉定勝です。上杉定勝は直江兼続死後のお船の方の面倒も非常によく見ており、直江兼続お船夫婦との関係の深さを感じさせます。


上杉定勝は慶長9年5月5日(1604年6月2日)に上杉景勝の庶長子として生まれました。母親は上杉景勝の側室(上杉定勝誕生時点ですでに正室の菊姫は死去)で、上杉家と同じく藤原北家の後裔である四辻公遠の娘でしたが、この四辻氏(桂岩院)は定勝を生んで百日余り後に亡くなってしまいました。そこで父親の上杉景勝に代わって定勝の面倒を見たのが直江兼続とお船の方夫婦でした。


元和9年3月20日(1623年4月19日)に父親の上杉景勝が亡くなると、景勝にとって唯一の実子だった上杉定勝がその後を継いで第2代米沢藩藩主となります。定勝は藩主となってもすでに未亡人となっていたお船の方の恩を忘れず、お船の方に化粧料3000石に加え手明組40人を与えています。寛永13年(1636年)にお船の方が病に倒れたときには、定勝自ら見舞いに訪れ、病気平癒を祈願しています。しかしその願いも虚しく、お船の方は翌寛永14年(1637年)1月4日に亡くなってしまいます。それを受けて定勝は高野山に使者を遣わし、お船のために墓石を立てたと言われています。


それからわずか8年後の正保2年(1645年)には上杉定勝も42歳という若さで死に、後は嫡男の綱勝が継ぎました。

直江兼続の娘と結婚し、一時直江家の婿養子となっていたのがこの本多政重という人物です。一時という表現からも分かるように後に養子としての関係は解消していますが、直江兼続とはその後も親交を続けたようです。


本多政重は天正8年(1580年)に本多正信の次男として生まれました。兄は本多正純で、当初は父や兄とともに徳川家康に仕えていました。この頃は倉橋家の養子となっていましたが、慶長2年に徳川秀忠の乳母の子岡部荘八を斬り殺して徳川家を逐電、大谷吉継に仕えるようになりました。やがてそこも去り、宇喜多秀家に仕えるようになり、この頃は正木左兵衛と名乗っていました。宇喜多家に仕えた状態のまま関ヶ原の戦いを迎え、敗れた後は近江国堅田へ隠棲しますが、父親の影響かお咎めはなかったようです。


その後は福島家、前田家、上杉家と主家を転々と変えていますが、慶長9年(1604年)に直江兼続の娘於松と結婚して直江家の婿養子となり、名を直江大和守勝吉と改めています。しかしその翌年には於松が亡くなってしまい、直江兼続の養女阿虎と再婚して名を本多安房守政重と再び改めています。


しかし慶長16年(1611年)にはこの上杉家も去り、翌慶長17年(1612年)に前田家に再仕官して知行3万石を拝領しました。以後は前田家に仕え続け、大坂の陣にも参戦しています。その後も家老として前田家を支え、正保4年(1647年)に隠居するまでその立場にとどまりました。同年68歳で亡くなり、後は本多政長が継ぎました。

若き日の直江兼続―まだ樋口与六と名乗っていた頃の彼を見て、その非凡な才能を見出したのがこの仙桃院です。仙桃院は大永4年(1524年)もしくは享禄元年(1528年)に長尾為景の娘として生まれました。弟に上杉謙信がいます。上杉謙信とは母親を同じくしていると考えられ、姉弟仲は大変良かったようです。


天文6年(1537年)頃に越後坂戸城主長尾政景と婚約が成立し、そのもとに嫁ぎました。仙桃院とこの長尾政景との間には二男二女がおり、長男の義景は早世しましたが次男の長尾顕景は後に上杉謙信の養子となり、名を景勝と改めて謙信の後を継いでいます。また娘2人はそれぞれ上杉景虎と上条政繁に嫁いでいます。


永禄7年(1564年)には夫の長尾政景が坂戸城近くの野尻池で宇佐美定満とともに船を浮かべて宴会をしていたところ、船が転覆してそのまま亡くなるという事件が起こりました。この事件の後仙桃院は息子ともども春日山城に引き取られ、景勝は謙信の養子となったわけです。


やがて上杉謙信が亡くなると御館の乱が起こり、上杉景勝と上杉景虎が上杉謙信の後継者の座を巡って争います。これは仙桃院にとって非常に辛いことでした。前述の通り上杉景勝は仙桃院の息子ですし、上杉景虎には仙桃院の長女(次女という説も)が嫁いでいたのです。結局この戦いは上杉景勝側が勝ち、仙桃院の娘と孫の道満丸は上杉景虎とともに亡くなってしまいます。


仙桃院は当時としてはかなりの長命で、上杉家の米沢移封にも付き従い、慶長14年(1609年)に米沢で亡くなりました。墓所は米沢林泉寺にあります。

司馬遼太郎の小説『関ヶ原』で直江兼続の親友として描かれている石田三成ですが、実際にもこの2人はある程度懇意にしていたようです。


石田三成は永禄3年(1560年)に近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれました。奇しくもこの永禄3年(1560年)に直江兼続も誕生しています。つまり2人は同い年だったわけです。


三成は若い頃から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、本能寺の変後に秀吉が勢力を拡大していくと、その中にあって三成も徐々に頭角を現していきました。天正13年に秀吉が関白となると三成も近江水口4万石の城主に封じられています。そしてその年、天正13年に三成は初めて直江兼続と、そして上杉景勝と出会います。この頃三成は上杉家と豊臣家の外交を担当していたようで、この頃から直江兼続と親しくなっていったと考えられます。


翌天正14年には上杉景勝が直江兼続らを連れて上洛し、大坂城で秀吉に会い、臣従の礼をとりました。このとき兼続は秀吉から破格の褒美を拝領しますが、もちろん三成の口添えがあったものと思われます。


その後慶長3年には上杉家に会津120万石への国替えが命じられますが、このときも石田三成の尽力がありました。当初金山がある佐渡島は召し上げということになっていましたが、三成の進言で取りやめとなり、佐渡島はそのまま上杉家の所領となりました。また国替えに伴う多大な困難にあたっても三成のさまざまな援助があり、このためもあって上杉家の国替えは難しい中ではありましたがスムーズに行なわれました。


こうした事柄から恩を感じたことも、上杉家が後に関ヶ原の戦いにおいて石田方を支持した原因の1つになったようです。三成は関ヶ原の戦いの後処刑されますが、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたと言われています。

漫画やゲームの登場人物として知名度は抜群、しかし実像はあまり知られていない人物の代表格といえばこの前田利益でしょう。漫画やゲームでは前田慶次として登場していますね。この前田利益も直江兼続と、そして上杉家とゆかりの深い人物です。


前田利益は生年にも諸説があり(天文2年、天文10年という2説が有力)はっきりしたことは分かっていません。通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎などがあります。彼は滝川家の生まれですが、前田利家の兄前田利久の養子になったと言われています。織田信長の命で前田家は利久ではなく弟の利家が継ぐこととなり、利益も養父の利久とともに前田家の居城であった荒子城を去りました。その後の消息も不明な点が多いですが、前田利家が能登を得るとそこに仕えたようです。


しかしやがて前田利家のもとを去り、関ヶ原の戦いの頃までには上杉家に仕えるようになっていました。関ヶ原の戦いと時を同じくして起こった上杉家と最上家、伊達家の戦いにも参加し、とりわけ熾烈を極めた長谷堂城の戦いでは死を覚悟した直江兼続を思いとどまらせ、殿軍として上杉家の撤退を成功させたと言われています。


その後上杉家は米沢に減封されますが、これに付き従って米沢に入ったようです。米沢に入ってからは米沢近郊の堂森に隠棲し、慶長17年にそこで没したとされています。前田利益はその武勇やカブキ者として有名ですが、かなりの教養人としても知られており、堂森に隠棲後は直江兼続とともに史記に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠んだりするといった活動を行なっていました。現在も米沢市万世町堂森には彼の供養塔が残っています。

直江兼続と伊達政宗―長谷堂城の戦いでは相対した両者(伊達政宗が実際に戦闘に参加したわけではありませんが)ですが、この2人何かと因縁のある間柄となっています。有名なエピソードを2つ紹介しましょう。


まだ豊臣政権下だった頃のお話。あるとき伊達政宗が同席していた諸大名に天正大判を回覧しました。すると兼続だけがそれを素手ではなく、扇子で受け、撥ねるようにして表裏を見たと言われています。伊達政宗は直江兼続が遠慮しているのかと思い、直接手に触れて見るように勧めたところ、兼続は「不肖兼続の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」と、政宗の下へそのまま投げ返したそうです。


次に紹介するエピソードは江戸時代に入ってからのものです。あるとき直江兼続は江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違いました。このとき会釈すらせず素通りした直江兼続に対して伊達政宗は憤慨しますが、直江兼続はこのような返答をしました。「なるほどうしろ姿は紛れもない政宗公、戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつもうしろ姿ばかりで正面から拝見しても一向に気がつきませんでした」。
※つまり直江兼続は伊達政宗が逃げる姿しか見たことがなかったと述べているわけです。

上杉家が会津へ移ったときに直江家の居城となるなど、直江兼続とゆかりの深い場所の1つとして米沢城が挙げられますが、実は伊達政宗の生誕の地がこの米沢城でした。なにかと縁のある2人ですね。

直江兼続が一生をかけて仕え、忠義を尽くした主君、それがこの上杉景勝です。上杉景勝は弘治元年(1555年)に長尾政景の次男として生まれました。母親は上杉謙信の姉である仙桃院(仙洞院とも)であり、永禄7年(1564年)に父の長尾政景が死ぬと春日山城に入って上杉謙信の養子となりました。この頃はまだ長尾顕景と名乗っていましたが、天正3年(1575年)に上杉景勝と名を改めています。


天正6年(1578年)に養父の謙信がなくなると、景勝は上杉景虎との後継者争い(御館の乱)の末家督を相続します。家督相続後は主に織田家と戦いますが、柴田勝家に攻め込まれ一時は上杉家滅亡の危機に立たされます。しかしちょうど時を同じくして本能寺の変が起こり、柴田勝家が軍を引いたためなんとか事なきを得ました。


豊臣政権下では豊臣秀吉の信頼を受け、五大老の1人として重用され、小田原攻めや朝鮮戦争にも参加しています。さらに奥州の伊達政宗に対する押さえとして会津120万石へ加増移封され、これに従いました。その直後に秀吉が亡くなると徳川家康と対立するようになり、関ヶ原の戦いでは西軍として最上家、伊達家と戦いました。


戦いの後家康に降伏した景勝は、許されて米沢30万石に移封されて米沢藩初代藩主となり、元和9年(1623年)3月20日、米沢で亡くなるまでその立場にとどまりました。上杉景勝の遺骨は和歌山県高野町の高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の御廟の上杉家御廟所に、それぞれ納められています。

直江兼続が初めて春日山城に出仕したのは、まだ兼続が樋口与六と呼ばれていた上杉謙信の時代だったと考えられています。


上杉謙信は越後の大名で、春日山城を居城に領国を支配していました。2007年の大河ドラマ「風林火山」で歌手のGacktさんが演じていたのは記憶に新しいところだと思います。


上杉謙信はかなりのカリスマ性を持っていた武将で、豪族たちの心をつかんでいました。自らを毘沙門天の化身とし、生涯妻を娶ることもありませんでした。
享禄3年(1530年)1月21日、長尾為景の四男として生まれた上杉謙信は幼くして寺に入れられました。その後元服しますが家督を継いでいた兄と争うようになり、ついには謙信が兄の養子に入る形で後を継ぎ、家督を相続しました。


家督を相続してからは各地で戦うことになりますが、とりわけ武田信玄との戦いは熾烈を極めました。幾度も川中島で戦った末結局引き分けというような状態になっています。
上杉謙信は武田信玄以外に北条氏とも数多くの戦いを繰り広げています。たいていは謙信を頼ってきた関東の豪族たちの旧領を取り戻すべく関東征伐を行なったもので、その回数は17回を数えました。


その後は北国において織田信長とも戦うようになり、手取川の戦いにおいては織田信長の重臣柴田勝家を散々に撃ち破っています。この戦いから帰還した後も上杉謙信はさらに遠征を行なうため大動員令を発しましたが、その準備中の天正6年(1578年)3月9日、春日山城の厠で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。49歳という若さでの突然の死は日本の歴史に大きな影響を及ぼしたと考えられています。

直江兼続の父親である樋口兼豊は朝日将軍と言われた源義仲(木曽義仲)の重臣樋口兼光の末裔であるとも言われています。妻は信州泉氏の娘(一説には直江景綱の妹とも言われている)。


樋口兼豊は直江兼続が生まれた越後国魚沼郡上田庄坂戸城の城主長尾政景に仕えていました。よく薪炭用人であったと言われますが、たしかなことは分かっていません。
樋口兼豊は永禄7年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で主君長尾政景が宇佐美定満と共に溺死すると、それからは上杉謙信に仕えるようになります。


上杉謙信の死後に起こった御館の乱では上杉景勝の側につき、勝利を得ることになります。御館の乱後にはその功によって直峰城を拝領し、直峰城主となります。
上杉家の会津移封にも付き従い、子の直江兼続が出陣している時には会津時代の兼続の居城であった米沢城の留守役を勤めるようになります。樋口兼豊は関ヶ原の戦いの2年後、慶長7年(1602年)に亡くなり、樋口家は兼豊の三男である秀兼が継ぎました。


樋口兼豊の子には直江兼続とこの後を継いだ秀兼のほかに次男の大国実頼もおり、この大国家の子孫には王子製紙前会長であった大国昌彦氏がおられます。ちなみに大国実頼には実子がなく、一時は断絶となりますが弟の樋口兼景の子である光頼を養子に迎えることによって家名を存続させています。なお大国実頼の娘は兄直江兼続の養女となって、一時兼続の養子となっていた本多政重と結婚しています。

なんとか命脈を保った上杉家でしたが、会津120万石から米沢30万石への減封はかなり困難の伴うものでした。
当時の上杉家は元々の家臣団に加え、戦いに備え30000人とも言われる浪人を雇用していました。当然減封によってそれらの家臣団にも今まで通りの石高を支給するということはできないわけです。しかも直江兼続は召し放ち(今で言うところのリストラ)を行なわなかったため、これが後々上杉家の財政を圧迫させることとなりました。
その後直江兼続は慶長13年1月4日(1608年2月19日)に、名を兼続から重光に改めています。現在でも直江重光としてではなく、直江兼続として呼ばれているのは、大正13年(1924年)に宮内省より従四位を追贈されたときに、直江兼続として追贈されたからであり、これが元で現在まで直江兼続と呼ばれています。


直江兼続はその後も上杉家の執政として米沢藩の藩政を取り仕切り、大坂の陣にも参戦して武功を立てるなど上杉家の中心として活躍を続けます。しかし元和5年12月19日(1620年1月23日)、看病もむなしく60歳にして江戸鱗屋敷で病死しました。


死後徳川秀忠から銀70枚、主君上杉景勝から銀50枚が送られています。なお直江家は息子のほうが先に亡くなっており、一時養子にしていた本多政重とも養子関係を解消していたため、家名断絶ということになりましたが、直江家の知行を返上することによって上杉家の財政状態を改善させようとした兼続が意図的に行なったこととも言われています。

豊臣秀吉の死の翌年、五大老の1人であり豊臣秀吉の盟友であった前田利家も亡くなります。ここから雲行きがだんだん怪しくなり、徳川家康が権力への野心をあらわにしていきます。


上杉家は徳川家と戦うことを決意し、ついに会津征伐が引き起こされました。これが関ヶ原の戦いへと続いていくことになります。徳川軍は石田三成と戦うために引き返したため、上杉軍と徳川軍が直接戦うことはありませんでしたが、上杉軍は徳川方についた最上家、伊達家と戦うことになりました。


このとき上杉軍24000人の指揮を執ったのが直江兼続で、兼続は最上家領内に攻め込み山形城、長谷堂城以外の城をすべて落とし、長谷堂城に攻めかかりました。兼続が長谷堂城を攻めあぐねている間に関ヶ原の戦いにおける西軍(石田三成)の敗北が知らされ、兼続は撤退することになります。


最上軍や伊達軍による追撃によってこの撤退は至難を極め、それは直江兼続に死を覚悟させるほどのものとなります。このときに兼続を思いとどまらせ、殿軍として獅子奮迅の働きをしたのが前田慶次郎です。直江兼続率いる上杉軍はこの前田慶次郎や水原親憲といった殿軍をつとめる勇将によって危機を脱し、無事会津へと帰還することができました。


このようにして会津に帰り着いた直江兼続ですが、今度は徳川家に降伏するか籠城して戦うかという難しい決断を迫られることになります。結局本多正信の仲介もあり、上杉家は徳川家康に降伏することになりますが、上杉家はなんとか潰されずにすみ、会津120万石から米沢30万石へ減封されることとなりました。

このような形で直江家を継いだ兼続ですが、このとき以後狩野秀治とともに上杉家の執政となります。狩野秀治の死後は直江兼続1人の執政体制となり、文字通り上杉家全体を支えるようになります。


豊臣政権時代には上杉家の外交責任者としてたびたび京・大坂に上り、活躍するようになりました。豊臣秀吉にも大変気に入られ、主君景勝とともに官位や豊臣姓を授けられたりもしています。この頃に豊臣秀吉の家臣であった石田三成と交友関係を結ぶようになり、この関係が後々直江兼続に、そして上杉家にもさまざまな影響をもたらすことになります。


豊臣秀吉の朝鮮出兵が起こると、文禄元年(1592年)からの文禄の役には主君上杉景勝とともに朝鮮に渡って武功を立てました。もっとも上杉家は大将として全軍をまとめてよく戦ったとは言えるものの、実際の戦闘にはほとんど参加していないようです。現在市立米沢図書館にある「米沢善本」の中に含まれているかなりの冊数の朝鮮古活字本は、この文禄の役のときに直江兼続が持ち帰ってきたものと言われています。


その後上杉家は慶長3年(1598年)に豊臣秀吉によって会津120万石に移封を命じられました。この国替えにはかなりの困難が伴いましたが、このときに国替えがスムーズにいくように尽力したのが直江兼続の盟友石田三成でした。三成がいなければ国替えはできなかったと言われるほど石田三成の働きは大きいものでした。この国替えが終わってまもなく、豊臣秀吉が死に、上杉家と直江兼続の運命はまたもや大きく変わることになります。

直江兼続は永禄3年(1560年)に越後国魚沼郡上田庄坂戸城で生まれました。父親は木曽義仲の重臣樋口兼光の末裔とも言われる樋口兼豊、母親は信州泉氏の娘と言われています。


父親は樋口兼光ですから、当然兼続も生まれながらに直江姓だったわけではありません。若年期には樋口姓を名乗り、樋口与六と呼ばれていたようです。一般にはごく若い時期から小姓として後の上杉景勝である長尾顕景に仕えていたと言われていますが、このことを証明する資料も乏しく、正確なことは今のところ分かっていません。


いずれにせよ上杉謙信存命中から春日山城で仕えていたと考えられる樋口与六―直江兼続ですが、上杉謙信の死後に起こった御館の乱によって大きく運命を変えることになります。この御館の乱とは、上杉謙信の養子2人上杉景勝と上杉景虎による謙信死後の上杉家における跡継ぎ争いですが、これに勝利したのは樋口与六の主君である上杉景勝でした。


上杉景勝は御館の乱に勝利した後、論功行賞を行ないますが、その内容に不満を持った毛利秀広が春日山城内において景勝の側近であった山崎秀仙と直江信綱を殺害するという事件が起きました。越後与板城主であった直江信綱はこのときまだ子がなく、直江家を存続させるためには誰かが直江家に入って相続する必要がありました。そこで選ばれたのが樋口与六で、与六は直江信綱の未亡人お船の方(直江景綱の娘)と結婚することによって直江家を相続しました。

直江兼続という人の名前を聞いたことがおありでしょうか?最近では2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公ということでこの直江兼続の知名度が上がってきているようです。きっとテレビやインターネットなどでこの直江兼続という名前だけは目にする機会が多くなっていることと思います。


では実際のところ、この直江兼続という人物がいつの時代の人で何をした人かということはご存知でしたでしょうか?恐らく名前くらいはご存知だったとしても、彼がいったいどういう人だったのかといった詳しいことまでは知らないという人が大多数なのではないでしょうか?


実際NHKの大河ドラマでも、これまでに直江兼続を主人公に据えたことは一度もありませんし、確かに著名な人物ではあるんですけれども知名度の点では今一つと言える存在かもしれません。
簡単に説明すると、この直江兼続という人は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した人物で、若くしてかの有名な上杉謙信に仕え、上杉謙信の死後はその後を継いだ上杉景勝に仕え、後には家老として上杉家を支えるまでの存在になりました。直江兼続は武勇に優れているのはもちろんながら、学問にも優れ、漢詩もよく詠むといったまさに文武両道の武将でした。


また直江兼続は容姿もよかったことが伝えられており、そのためといえるのかどうか、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」ではこの直江兼続役を俳優の妻夫木聡さんが演ずることになっているようです。

直江兼続・NHK大河ドラマ『天地人』

直江兼続・2009年放送予定のNHKの大河ドラマ『天地人』では、主役としてその生涯が初めて描かれることになった。隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』およびその関連作品においては、主人公・前田慶次郎の無二の親友として、物語上も重要な役割を果たす人物として登場する。