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直江兼続の周辺人物―石田三成

司馬遼太郎の小説『関ヶ原』で直江兼続の親友として描かれている石田三成ですが、実際にもこの2人はある程度懇意にしていたようです。


石田三成は永禄3年(1560年)に近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれました。奇しくもこの永禄3年(1560年)に直江兼続も誕生しています。つまり2人は同い年だったわけです。


三成は若い頃から羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、本能寺の変後に秀吉が勢力を拡大していくと、その中にあって三成も徐々に頭角を現していきました。天正13年に秀吉が関白となると三成も近江水口4万石の城主に封じられています。そしてその年、天正13年に三成は初めて直江兼続と、そして上杉景勝と出会います。この頃三成は上杉家と豊臣家の外交を担当していたようで、この頃から直江兼続と親しくなっていったと考えられます。


翌天正14年には上杉景勝が直江兼続らを連れて上洛し、大坂城で秀吉に会い、臣従の礼をとりました。このとき兼続は秀吉から破格の褒美を拝領しますが、もちろん三成の口添えがあったものと思われます。


その後慶長3年には上杉家に会津120万石への国替えが命じられますが、このときも石田三成の尽力がありました。当初金山がある佐渡島は召し上げということになっていましたが、三成の進言で取りやめとなり、佐渡島はそのまま上杉家の所領となりました。また国替えに伴う多大な困難にあたっても三成のさまざまな援助があり、このためもあって上杉家の国替えは難しい中ではありましたがスムーズに行なわれました。


こうした事柄から恩を感じたことも、上杉家が後に関ヶ原の戦いにおいて石田方を支持した原因の1つになったようです。三成は関ヶ原の戦いの後処刑されますが、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたと言われています。

         

直江兼続の周辺人物-その2

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